買い換え特例について
不動産を売って、一定の期間内に代わりの不動産を買うこと、つまり買い換えを行った場合、売却した不動産に対する譲渡税を繰り延べるという制度。マイホームの買い換え特例、事業用財産の買い換え特例などいくつかの種類がある。「課税の繰り延べ」というのは、あくまでも買い換えた時点では「譲渡がなかったものとみなす」ということ。課税時期を先に伸ばすだけで、次に売却するときにはあらためて課税されることに注意。
整体師が没するとその息子たちを見限り、マリのジムリ・リムに接近して同盟を結んだ。マリとの同盟は到底シャムシ・アダド1世の支援ほどの効果は得られず、ハンムラビは大規模な軍事活動を起こすことはできなかった。その後20年前後にもわたり、ほとんど専ら国内整備と防御に時間を費やした。
転機となったのは紀元前1764年の戦いである。この年、エシュヌンナ、アッシリア、グティ人、エラムなどの同盟軍がバビロンを攻撃した。マリの支援もあり、ハンムラビはこの戦いに勝利し行動の自由を得た。翌年、一挙に南下してラルサのリム・シン1世を打ち破りラルサを併合した。続いて長年にわたる同盟相手であったマリのジムリ・リムも滅ぼしてマリを併合した。紀元前1757年頃にはエシュヌンナ市を完全に破壊し、アッシリアへも出兵してこれを征服した(征服した範囲については明確ではない)。
粗大ごみのハンムラビ王の征服活動の結果、再び全メソポタミアを支配する王朝が登場し、バビロン市がメソポタミアの中心都市として舞台に登場し始めることとなった。
ウル第3王朝末期以来、シュメール語は日常語としては次第に用いられなくなっていった。シュメール系とされるウル第3王朝の諸王の王名にもアッカド語人名が現れているほどであり、ハンムラビ王がメソポタミアを統一した頃には完全に死語となっていたといわれている。代わってアッカド語が行政においてもその他文学においても一般化していった。アッカド語は大きく南方言(バビロニア語)と北方言(アッシリア語)にわかれ、その後時代による言語の変化を起こしながらも、アラム語の登場までオリエントの共通語として存続することとなる。
不用品回収はシュメールの後継者たることを主張したために行政文書や法律文書にはシュメール語が多く使用されたほか、シュメール時代の文学作品の多くが書写されて後世に残された(これらの中にはこの時期に新しく作られたものもあるといわれる)。現代において得られるシュメール語文書の多くは実際にはこのイシン・ラルサ時代の書き写しによって知られている。こうしてシュメール語は西欧におけるラテン語のように、政治・宗教・学問の言語としてなおも継承された。
また、この時代のほとんどの王朝がアムル人によって建てられたにもかかわらず、アムル語が筆記に使用されることはほとんどなかった。アムル人の人名にアッカド語と異なるアムル語人名が同定できる(ハンムラビの項目参照)ことなどから、アムル人たちはイシン・ラルサ時代にはアッカド人とは別個のアイデンティティを持っていたと推定されるが、シュメール・アッカドの文化を受け入れ次第に同化していった。
シュメールの影響は色濃く残された。シュメール時代の祭祀・儀礼の多くがイシン・ラルサ時代の王朝、とりわけイシン・ラルサの王たちによって継承された。イシン王は正式には「国土の王、ウル王」を名乗っており、シュメールの最高神エンリルによって王に任じられるという体裁を取っていた。
一方で、各地で自立した王朝によってそれぞれの都市神の地位が向上され、新たな神々も登場した。バビロンの都市神マルドゥクやエシュヌンナの都市神ティシュパク、そしてアッシリアの神格化された都市アッシュールなどが国土の統治権を有する神として祀られていくことになる。
この時代は人類最古級の法律文書が次々と現れる時代でもある。すでにシュメール時代にもウル・ナンム法典などが存在したが、イシン・ラルサ時代の法典はシュメールの伝統を継承しつつ作成されたものと考えられ、この時代が単に戦乱と無秩序のみの時代であったわけではないことがわかる。
イシンのリピト・イシュタル法典、エシュヌンナのエシュヌンナ法典、そして何よりもバビロンのハンムラビ法典などが次々と編纂された。ただし、これらが実際に運用された法律であると考えるには体系性がないことが知られており、法律というよりは「判例集」「法規集」のような性質を持っていたともいわれる。実際にこれらの法典を用いて行われた裁判の記録などは発見されていない。
この時代の経済については王室経済を中心に多くのことが知られている。マリやラルサなどでは官営の織物工場が建設され、雇用契約体系も整えられていた。アッシリア商人たちは錫や毛織物の取引を通じて北メソポタミアを中心に商業圏を確立し、バビロンなど南部メソポタミアの地でも居留区(カールム、ワバラトゥム)などを作って売買を行っていた。現地の商人たちも独自に交易活動を行っていたと考えられる。各国の王たちはこれら商人の活動に関税をかけて収入を得るとともに、商人長と呼ばれる役人を置いて、商人たちの活動を統制し、また必要な商品を得ていた。国によっては、一部の商品に専売制を敷いていた場合もある。この時代に独立王朝が成立した都市の多くはこうした商人たちの交易ルート上にあり、その政治的発展が経済と無関係であったとは考えられない。
こうした経済の発展の一助となったのが銀である。銀は主に粒銀や延べ棒の形で使用され、物の価値を判別する基準となり、交易や投資における決済手段となった。持ち運びが容易で腐ることもない銀による支払いの確立は、経済規模の拡大をもたらしたことは疑いない。この銀をもとに、小切手に類似したような債権票も使用されている。ただし、未だ貨幣経済といえる状況にはなく、物々交換も依然優勢であった。
大土地所有による資本蓄積も行われ、イディン・ラガマル家のような民間の大地主の記録も残っている。土地も北部メソポタミアを中心に投資の対象となっていたが、南部メソポタミアで民間での土地取引が活発化(土地取引に関する史料が増大)するのはハンムラビの統一以後の古バビロニア時代後期に入ってからである。
鉄道狂時代(てつどうきょうじだい)とは、1840年代にイギリスで発生した投資熱のことを指す用語である。バブル経済の共通のパターンをたどり、鉄道会社の株価が上昇するにつれて、投機家がさらに多くの金を注ぎ込み、不可避の崩壊を迎えた。272もの新鉄道会社を設立する法案が議会を通過した1846年に頂点に達した。
英語ではRailway Maniaと頭文字を大文字にして表記され、日本語では鉄道狂時代と訳したり、そのままカナでレールウェイ・マニアと呼んだりする。日本語で鉄道マニアというと鉄道ファンのことを指すが、Railway Maniaという言葉はそれとは全く関係がなく、鉄道を趣味の対象としてではなく投資の対象として熱中することを指している。英語で鉄道ファンのことはrailfanやrailway enthusiastなどと呼ぶ。
19世紀初頭に鉄道が実用化されると、鉄道は儲かる事業であるとみなされ、多くの投資家が鉄道会社の設立・投資に殺到することになった。これによりイギリスでは、同じ区間に重複して鉄道路線が敷設されたり、およそ採算の取れる見込みのない地方にも敷設されたりすることになった。当然ながらまもなく破綻し、イギリスの鉄道会社は次第に集約されて鉄道王ジョージ・ハドソン(George Hudson)の時代、そして四大鉄道会社の時代へと進んでいくことになった。
イギリスに限らず、多くの国で鉄道への投資が集中して国土の大部分を覆う鉄道網が急激に進展していった時代があり、これを指して同じように鉄道狂時代と呼ぶことがある。