解約手付について
手付金の性格の1つ。売買契約の相手方が契約の履行に着手する前までは、手付金を支払った買主が手付金を放棄するか、売主が手付金の2倍の金額を買主に返すことで自由に契約を解除できるというもの。前者を「手付流し」、後者を「手付倍返し」ともいう。履行の着手というのは、買主の場合は代金の一部を内金として支払った時点、売主の場合は引き渡しの日程を決めて残金決済と登記手続きの準備をした段階などがそれに当たる。
FXの後は、その孫の後鳥羽上皇が院政を行った。後鳥羽院は、将軍源実朝が暗殺された事を好機とし、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗(承久の乱)、自身は流罪となった上、皇権の低下と朝廷へ執権北条氏の介入を招いてしまった。乱後、後堀河天皇が即位するとその父親である行助入道親王が例外的に皇位を経ずして院政を行う(後高倉院)という事態も発生している。
院政は承久の乱以降も継続し、公家政権の中枢として機能した。特に乱以後初めて本格的な院政を布いた後嵯峨院政期に院政諸制度が整備されている。後嵯峨院は、奏事(弁官や蔵人による奏上)を取り次ぐ役職である伝奏の制度化、そして院が評定衆とともに相論(訴訟)裁許に当たる院評定を確立し、院政の機能強化に努めた。
FX 取引には後醍醐天皇が親政を行い院政は一時期中断したが、数年の後に北朝による院政が復活し、室町時代に入ってから院政は継続したが、永享5年(1433年)に後小松天皇が死去すると院政は事実上の終焉を迎えた。これ以降、院政は度々執られたが、あくまで形式上の存在でしかなくなっていったためである。
江戸時代に入ると、『禁中並公家諸法度』に基づいて江戸幕府の対朝廷介入は本格化し、皇族の政治介入はほとんど出来なくなった。徳川氏を外戚に持つ明正天皇の即位でこの体制は確立されるが、明正の治世中は後水尾上皇による院政が敷かれたため、明正が朝廷に於ける実権を持つことは無く、後水尾上皇に朝廷内の実権が集中した。さらに、霊元上皇が院政を行うと、江戸幕府との間に確執を生み、朝幕関係に緊張を走らせた。結果、江戸幕府は院政の存在を黙認せざるをえなくなる。元々院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであったがために、『禁中並公家諸法度』ではそれを統制できず、江戸幕府による朝廷の統制に限界があることを露呈した格好となった。
FXに閑院宮出身の光格天皇が、息子の仁孝天皇に譲位して院政を行ったが、これが現在において最後の院政である。
現在の日本では、院政は事実上禁止されている。1889年に制定された旧皇室典範第10条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」によって天皇の譲位は禁止され、天皇の崩御によってのみ皇位の継承がおこなわれることが規定された。これにより、院政の前提となる上皇の存在は否定された。
院政を否定的に見る考え方は、江戸時代の朱子学者(例:新井白石『読史余論』など)にも見られるが、院政期当時は天皇家の当主を擁した「朝廷」という組織が維持されれば天皇親政でも院政でも、天皇家の当主が天皇に在位しているか退位しているかの違いしか認識されていなかった。ところが、皇室典範の制定は皇位継承が法律によって厳密に行われることを意味するようになり、こうした曖昧な形態を持った「朝廷」というあり方そのものを否定することとなった[2]。これによって、従来は存在しなかった「皇位にあってこそ天皇として振舞える」「譲位して皇位を離れた天皇はその地位も権限も失われる」という概念が形成されるようになり、その後の日本人の一般的な院政観や専門家の院政研究にも影響を与えることとなった。
1947年に法律として制定された現行の皇室典範でも、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とし、皇位は終身制であり、皇位の継承は天皇の死去によってのみおこなわれることを定めている。さらに第2条で皇位継承の順序を、第3条でその順序の変更について規定しており、天皇が自らの意思によって継承者を指名できなくなっている。
君主位譲位者が後継者の後見として実質的な政務を行うという政治体制は、恒久的な制度としては世界史的にきわめて稀であり、他にはヴェトナムの陳朝にその例を見る程度である。
院政という言葉は現代日本でも使われている。組織のトップが公的地位を去り、なおも執行部に対して決定的な影響を常時与える形態を指す比喩である。主に国政や企業経営の状況に対して使われる。
政治においては、スキャンダル等によって退陣を余儀なくされた内閣総理大臣が、なお与党内において最も強力な影響力を保持している場合に「院政」の比喩が用いられる。例えば、竹下登が政権退陣した後の宇野宗佑政権・海部俊樹政権が「竹下院政」と称されたことがある(事実がそうであるかは不明)。現代日本政治の「院政」は、名目上実権を持たない地位に就いて実質的な権力を行使することにより、権力行使に伴う法的・道義的責任を回避することを主目的とする意味で使われており、歴史上の院政とは本質的に異なる。また企業や団体での類似の現象も院政と比喩されることがあるが、この場合は忠実な腹心や縁者を後継者として確定させることにより権力の更なる強化を図る意味合いが強い。例えば、社長を退任したあとも会長として権力を握り続けることを院政ということがある。
過去地球上では、少なくとも4回の大きな氷河期があった。
24億年前から21億年前頃の原生代初期に最も古い氷河期(ヒューロニアン氷期)があったことが仮説として考えられている。
証拠が残っているもので一番古いのは(原生代末期)の7億5千万年前からの氷河期(スターティアン氷期(〜7億年前)およびマリノア氷期(〜6.4億年前))で、過去10億年のなかでおそらくもっとも厳しいものとされている。氷が赤道まで覆いつくしスノーボールアースを作り出したと言われている。この氷河期の終結が引続き起きたカンブリア爆発の原因になったと言われているが、この説はまだ新しく現在も論争の的である。
古生代には、4億6千万年前から4億3千万年前にかけて小さな氷河期(Andean-Saharan氷期)があり、同じく古生代の3億6千万年前から2億6千万年前にかけてにも氷河の拡大期(Karoo氷期)があり、このときには生物の大量絶滅が起きている。
過去およそ5百万年間の氷期、間氷期の変動を示す堆積物の記録(横軸は単位百万年前、縦軸は地球上の氷床量の指標)現在の氷河期は、4000万年前の南極の氷床の成長により始まり、300万年前から起きた北半球での氷床の発達とともに規模が拡大した。更新世に向かうにつれて更に激しくなり、その頃から氷床の拡大と後退の繰り返しによる4万年と10万年の周期が世界中で見られるようになった。最後の氷期(最終氷期)は約1万年前に終った。
それぞれの氷河期と氷河期の間には数百万年続く温暖な期間がいくつかあるが、氷河期の間でも(少なくとも最近の氷河期では)温暖な時期と寒冷な時期がある。より寒い時期が「氷期」、より暖かい時期が、例えば「エーミアン間氷期」のように「間氷期」と呼ばれている。
過去45万年間の気候変化と氷床量の変化(横軸は単位千年前)最近の氷期が終わったのは、1万年ほど前である。現在は典型的な間氷期が、1万2000年ほど続いていると考えられているが、氷床コアデータによる精密な時期の断定は難しく、世界的な寒冷化をもたらす新しい氷期が間もなく始まる可能性もある。今のところ「温室効果ガス」を増加させている人為的な要因が、ミランコビッチの軌道周期のどの影響よりも重いだろうと信じられているが、地球軌道要素に対するより最新の研究では、人間活動の影響が無くとも、現在の間氷期は少なくとも5万年は続くだろうとも示唆している。
氷期と間氷期の変動に関連して、アメリカ国防総省が専門家に依頼して作成した地球温暖化の影響による大規模な気候変動を想定した安全保障についての報告書(Schwartz, P. and Randall, D. 2003)の存在が2004年に明るみに出て注目を集めた。 それによると、地球温暖化による海流の変化が原因で、北半球では2010年から平均気温が下がり始め、2017年には平均気温が7~8℃下がるという。逆に南半球では、急激に温度が上がり、降水量は減り、旱魃などの自然災害が起こるという。